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「いい夜ですな」
老人が言った。
千影は肯いた後。
「ああ………寒くも無く、暑くも無い………ちょっと着て行く服に迷ってしまい、挙句薄着をして風邪を引き、剰え拗らせてしまいそうな………そんな………いい夜だね」
そう言って口唇の端だけで微笑んだ。
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川縁の二人はやがて並んで歩き始めた。
「目を、患っておられるのですか?」
「ええ………少々悪い菌が入ってしまったようで………」
と、千影は前髪を垂らし隠されていた左目を露わにする。
白い。眼帯をしていた。
「………懇意にしている医者に掛かろうと考えていたのだけれど………前もって連絡を入れていなかったのが悪かった………」
「お医者様が、おられなかった?」
千影は肯いた。
「ふむ。それにしても奇妙な事ですな」
「………なぜだい?」
「この辺りには、眼のお医者はおられません」
老人の言葉に。
「………私はもう少し………あちらの方から来たんだ………」
千影は曖昧な記憶を頼りに指を指す。
「あちらも―――こちらも―――」
老人は首を振る。そして歩いて来た方を指差して。
「この辺りには―――瘋癲醫院しかございませんのに」
瘋癲醫院とは精神病院の古い言い方である。
千影は振り返り、川縁の、路の灯りに目を凝らす。
成程、川を流れる桜の美しさに気を取られ今まで気が付かなかったが、見れば路に街頭は一本も無く、立ち並ぶ瘋癲醫院どものピンクや青、それに黄色などのネオンサインが、煌々と―――
千影たちと夜桜と、川とを照らしていたのであった。
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