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「一人で洗えるのか………えらいね、雛子は」
と、呟いた千影は両手と顎を湯船の縁に預け、雛子が髪を洗う様子を眺めていた。
「ねえたまはどうしてたの?」
千影はその問いには答えずに。
「雛子は………今五歳だったかな?」
もう一度問うた。
「そーだよ?」
―――五歳か。心の中で繰り返す。
「私は………その………兄くん………いや、何でもない」
十歳まで髪を洗ってくれたのが兄、昴であった事。更に三日に一度は一緒に入浴していた、とは流石に言い出せなかった。
*
「ヒナねえ、知ってたんだよ」
「………何を………かな?」
「ねえたまが時々おるすにしてること………クシシシ」
妙な笑い声を立てる雛子を千影は訝しげに見ていたが。
雛子は鼻歌を歌いながら髪を洗う作業に戻っていた。それを見た千影は背を向け湯槽に背を預ける。
「それは………驚いたね………何故………分かったのかな?」
館の浴場は広く、湯槽は下手な銭湯よりも大きい。
湯煙に隠れた朝日の差し込む窓を眺めながら
答えはなかった。
もう一度言い掛け―――改めて雛子を見やって、止めた。
千影の言葉は無視された訳でなく―――丁度髪を流している所であった。
「………内緒の秘密………と言った所かな………」
返って来る答えを予想して苦笑する。
「ん?ねえたま、何か言った?」
「いや………何でもない………雛子、こっちに来るかい?」
手を差し出す千影の元に。
「うん!」
水飛沫を上げ、雛子が飛び込んだ。
「………飛び込むのは………止めた方がいい………行儀が悪いと………兄くんに嫌われるよ………雛子?」
と、髪の先までずぶ濡れになった千影。
だがその言葉は雛子の耳には届かなかったようだ。顔の水を拭ってふと目の前を見ると既に雛子は数メートル先を泳いでいた。
その先で雛子が振り返る。何やら不満そうな貌。
「ねえたま、なんか冷たいよ、お湯」
「………思ったより………人の話を聞かないんだね………私は………温いお風呂に何時までも浸かっているのが好きなんだよ………」
「あったかくしていい?」
「………まあ………たまにはいいかな………」思えば………道に迷い始めた時から、既に術に掛けられたのかもしれない。
「あの幻術師(イリュージョニスト)………名前を聞いておけば良かったな………」
と夢うつつの中で千影が思い付いた時。
「千影ちゃん、今日は随分お寝坊さんなのね?」
「おねぼうさんなのね、ねえたま?」
姉と妹の声―――千影はベッドの下で目を醒ました。
「第二話」
「また夜更かししていたの?」
「ああ………どうも夢中になる性分でね………」
あれから無事に夜が明けた。
ちょっとした助けが来たお陰で朝には帰宅する事が出来た。
「持つべきものは愛すべき妹………だけど眠いな………」
「千影ちゃん、何か言った?」
「いや………なんでも………」
*
千影は椅子の背凭れに身を預け、姉、可憐が髪を梳くのに任せている。
朝日は千影の魔女の刻印を映し出さない―――黒髪を可憐に預けるのはいい気分だった。
妹、雛子は千影の膝の上で、歌を歌っている。
「何だか具合が良くないようね………朝ごはんは食べられる?」
「ああ………大丈夫………それに、起こして貰うよう頼んだのは………この私だからね」
「あと、やっぱりベッドは寝辛い?いつも転げ落ちているみたいだけど」
「まあ………その内慣れると思うよ………」
まさか棺桶の方が落ち着くとは言い辛い。
そう言えばあの棺桶―――物心付いた時から千影の寝床であり、隠れ家であった―――は暫く使っていない………何処に置いただろうか。
しかし、何故だろう。眠いのは分かるが―――何か胸の辺りがむかむかする。
「それにしても………千影ちゃん?」
髪を梳かしながら可憐が耳打ちする。
「何だい………姉さん?」
「昨晩は一体何処に行っていたの?」
「………………………………」
「千影ちゃん?」
「い………一体………何を言っているのかな………」
夕食の時には家族全員が集まる事になっている。だが昨晩は帰れるか分からなかった為、魔道具によって生み出される分身、『影』を置いて来た。千影と『影』は、記憶の共有を行う事が出来る。
「千影ちゃん、とぼけてもダメよ?じゃあ昨日の夕ごはんを覚えている?」
帰宅してからすぐ、昨晩の出来事に関して家族との間で齟齬が生じないように、『共有』を行ってからベッドに沈み込んだのは正解だった………
「勿論………しゃぶしゃぶは兄くんの次に好きだという事………可憐も知っているだろう?」
「そうね、でも、千影ちゃん、昨日皆が止めているのに、お肉を生のまま食べていたわよ」
「なにい………いや、何でもない、その………」
この胸のむかつきはそう言う事か………『影』の行動を単調にし過ぎている所為だ。ともかく言葉を続けた。
「はは………生肉は可憐の次くらいには好物………だよ」
「ねえねえ、ヒナはぁ?」
と膝の上の雛子。
「雛子はしゃぶしゃぶと同着………二位だよ」
「わあ、よかったぁ。ヒナ、にばん~」
「おっと………紅茶がこぼれるよ………」
「それで、白雪ちゃんのケーキは何番目くらい?喜んでいたわよ?今日も千影ちゃんの為に腕によりを掛けてスイーツを作るんだって、朝早くから厨房に篭りっぱなしよ」
「白雪の………ケーキ?」
肩越しに振り返り後ろを見る―――可憐が首を縦に振る。
向き直り雛子と目を合わせる―――やはり首を縦に振る。
「きのうの白雪ちゃんのケーキ、すごかったよね?ねえたま………一人で食べちゃうんだもん………おいしかった?おさかなさん」
ケーキ?魚?記憶を辿る―――まだ図示されていないビジョン。
「う………」
千影は―――視た。
何か巨大な魚の頭が毒々しい色の装飾をされて、これまた禍々しい彩りの土台であるケーキの上に鎮座ましましており、一言で言えば―――邪神降臨と言った風情だ。
「私が………食べた?」
肩越しに振り返り後ろを見る―――可憐が首を縦に振る。
向き直り雛子と目を合わせる―――やはり首を縦に振る。
次の瞬間、千影は口に含んでいた紅茶を垂れ流していた。抱えていた雛子の頭上へ。
「やだあ………ねえたま、もう、お着替えしたばっかりなのに………ぐす」
べそをかき始めた雛子。
「あ………済まない………可憐………悪いが、お小言は後で………あと髪も後で………まずお風呂にする………雛子、行こうか………」
膝の上から雛子を降ろしながら言った。
「え?ねえたまとおふろ?」
「ああ………そうだよ………」
髪を撫でる―――砂糖がたっぷり入った紅茶でべたべただ。
「わーいわーい、ヒナ、ひよこさん取って来るね!」
途端に泣き止んだ雛子は、自室に走って行った。
*
「しかし………凄いね、姉さん………あの『影』は兄くんでも見破れないのに………」
「だって千影ちゃん、嘘をつく時、私の事、『可憐』って呼ぶでしょう?昔からね、千影ちゃん………壁を作る時、そうしていたのよ?」
可憐が微笑んだ。
「そう………か」
「それに………」
「それに?」
「昨日の千影ちゃん、眼帯をしていなかったわ」今分かる事と言えば。
躯が動かない。
声は出るようだ。
背凭れの深い椅子に座っている。
甘い紅茶の香りが漂っている。
「………成程………危機一髪………と言う訳だね………」
「なあに。痛みは感じさせません。怖れや痛みを与える事は私の本意ではありませぬ故」
「………………………」
千影の無言に促される形になったか、老人が続ける。
「つまり………これから貴女の眼を刳り貫き硝子玉を入れ、内臓を捌いて綿を詰めます―――貴女は私の元で永遠に美しい人形になるのです。そして、それには苦痛や恐怖は不要です。作品の貌が―――崩れますからな。時にはそう言った物を喜ばれる御仁もいらっしゃるようですが私の作品は恍惚とした甘美な微笑みを湛えた少女人形―――あなたはそう成るに相応しい」
「………それは………光栄だね………」
千影の皮肉をどう受け取ったか、老人は懐から赤い玉を取り出して言った。
「私はこの―――血紅色の玉を入れるに相応しい素体を求めて夜の町を彷徨っておりました。そして、私は初めて出逢ったその時からずっと思っていたのです―――貴女にその黝い瞳は似合わない。この二つの出逢いが運命で無くて何でありましょう」
千影は肯いた―――肯けていただろうか。
「ならば………一つだけお願いがあるんだ」
「何でしょう―――可能な限りお応え致します」
「左の眼を………先に………してくれないかな………」
「―――畏まりました」
恭しく一礼した。
*
「なあに心配はございません。私もそれなりに医術の心得がございます―――そのお躯に瑕一つ付けず、完成させて御覧に入れましょう」
白い手袋を嵌めた老人の手が、眼帯に掛かる、とその時。
千影の左眼から飛び出した影が―――闇より黒い、虹より眩しい色彩が一瞬のうちに老人を飲み込んでいた。
その一瞬の後、影は再び千影の左眼に消えた。
「だから………そこいらの医者の手に負えるものではない、と………言ったのにね………フフフ」
千影はほんの、ほんの少しだけ口唇の端を吊り上げて微笑する。
「しかし………見事な使い手だった………また逢えるかも………しれないね………」
躯はまだ動かない。
動けるまでに後どの位掛かるだろう。
だが―――良いではないか。
再び躯に自由が戻るまで、こうして月明かりの中で夜空を見ているのも悪くない。
どの道迷っていたのだから―――もう少しくらい遅くなっても。
「ああ、全く………全く悪く無いのだけれど………惜しむらくは………こうして身動きの取れぬ私の躯を玩んでくれるキミが………居ない事だ………兄くん」
第一話 完
「………これだけ医者があるんだ………一つくらい………眼科があっても………よさそうなものだけどね………」
「探してみますかな?」
「いや………よしにしておこう………」
老人はそれを、これだけの瘋癲醫院の中から、眼科を探し出す作業が億劫である事からの断りかと受け取ったのだが、直ぐに、そうでは無い事が眼前の、青紫の髪の少女の赤い口唇から漏らされた。
「これは………そこいらの医者の手に………負えるモノでは無い………のでね」
眼帯をしている方の眼を押さえる。
或いは―――隠すような仕草であった。
残された瞳が今度は老人を凝視する。
否。凝視していたのは―――黝い瞳は少女を見つめる老人の姿を映し出し、それを捕らえて離さ無い自分自身だと老人は気が付いた。
ひゅぅぅぅぅぅぅ
微かに肌を突く春風が桜の花びらと千影の黒い外套と青紫の髪とを巻き上げた。
その一瞬の間、老人は目を逸らす。
千影もまた川に、目を向け直す。
そして無言のまま、再び二人は川縁の道を歩き始める。
何時の間にか夜啼鳥の聲も途絶え。
風に桜の木が揺れる音。
瘋癲醫院に輝くネオンサインの発光に伴う鈍い音。
それだけが夜道に響く。
跫すら立てぬ二人はするすると歩みを進め―――千影の瞳はそれより尚黒い、水面に浮かぶ虹色の、異次元のような光彩を映し出していた。
やがて、沈黙に耐えかねたか、老人が先に口を開いた。
「それであれば、一刻も早く何らかの手を打つべきですな」
「………私も………そうしたい所だけれど………」
「お嬢さん、少し、お時間を頂いて宜しいですかな?」
「………勿論………構わないが………」
いずれにしても宛もなく歩き続けていた所だ。是も非も無い。
「そろそろ私の息子が帰宅している頃です。息子は独逸で細菌の勉強をしておった事がありまして―――何かお役に立てるかもしれません。それに歩き続けてお疲れでしょう、珈琲でも如何ですかな?」
「………紅茶は………出るかな………?」
老人は目を細めて肯いた。
*
気が付けば薄暗い部屋の中。
「………どう言う………事だろう………」
「有り体に言えば―――貴女は罠に掛かったのです、お嬢さん」
天窓から差し込む微かな月明かりを背に老人が立っていた。
ホッホー、ホッホー
「………おや?鳥が………啼いているね………」
「あれは鳥ではございません―――それ」
と老人は千影の背後を指差す。
その先―――樹上には鳥にしては余りにも大きすぎるシルエットがあった。
それは梟のようでもあり、人が蹲っているようにも見えた。
目を凝らす。
千影の黝い瞳と、爛々と輝く夜啼鳥のそれと、三本の視線が交差する。
間違いなく其処には人が―――少なくとも人の姿をしたモノが―――千影を凝視しながら啼いていた。
その千影の様子に気が付いたのか。
「そこらからいつも抜け出してしまうようです」
と、老人は周囲の瘋癲醫院を指差して、
「遠くに行く訳でもなく、朝になれば帰って来るので、放っておいているようです」
「ふむ………」
千影は顎に手にやって、何やら思案していたようであるが。
「それにしても………」
と視線を夜啼鳥から外して言葉を続ける。
「………この道は………どこまで続いているのかな………」
先を見やれば蛇行しながら続く川と、それに沿って輝きを放つネオンサイン、それに照らされた桜の木々だけが視界にあり―――
いつまでも、どこまでも続いているように見えた。