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ホッホー、ホッホー
「………おや?鳥が………啼いているね………」
「あれは鳥ではございません―――それ」
と老人は千影の背後を指差す。
その先―――樹上には鳥にしては余りにも大きすぎるシルエットがあった。
それは梟のようでもあり、人が蹲っているようにも見えた。
目を凝らす。
千影の黝い瞳と、爛々と輝く夜啼鳥のそれと、三本の視線が交差する。
間違いなく其処には人が―――少なくとも人の姿をしたモノが―――千影を凝視しながら啼いていた。
その千影の様子に気が付いたのか。
「そこらからいつも抜け出してしまうようです」
と、老人は周囲の瘋癲醫院を指差して、
「遠くに行く訳でもなく、朝になれば帰って来るので、放っておいているようです」
「ふむ………」
千影は顎に手にやって、何やら思案していたようであるが。
「それにしても………」
と視線を夜啼鳥から外して言葉を続ける。
「………この道は………どこまで続いているのかな………」
先を見やれば蛇行しながら続く川と、それに沿って輝きを放つネオンサイン、それに照らされた桜の木々だけが視界にあり―――
いつまでも、どこまでも続いているように見えた。
千影は黒い手袋をした指先を口元に持って行き、
「ふむ………なかなか悪くないね」
と、赤黒い、血糊を思わせるルージュを引いた口唇の端を微かに動かし、呟いた。
「たまにはこうして………出歩いてみるのもいいものだね………」
4月のとある夜。
帰り道での出来事。
*
それは千影が世界で唯一『先生』と呼ぶ、癒し手の住まいからの路であった。
聞いた住所に何とか辿り付いた頃にはすっかり日も落ち、上天には下弦の月。
今宵は珍しく降ろしていた長い黒髪を、蒼白の月光が青紫に染め上げていた。
初めて訪れる地で、日が落ちて周囲の様相も一変してしまい、往路の道筋を見失ってしまった千影は、今、行き当たった川縁の道を揺らゆらと歩いている。
橋にあった川の名前を見て、往路で通り過ぎた道であったような気がした事。加えて川縁にずらりと並ぶ、散り始めの夜桜を見物しながら迷い続けるのも悪くない、と考えたからであった。
その川の名をインターネットで検索すれば、それが日本で三番目に、つまり、S県で一番水質が悪い、と紹介されている河川である事実を知る事が出来た筈だが、そんな評判とは裏腹に、油の浮いた虹色の川に浮かぶ無数の桜の花びらが風に吹かれ舞い降り、そして流れゆく様は色々な意味で幻想的であった。
「全く………全く悪くないのだけれど………嘆かわしきは………この彩りを………美しさを………分かち合うキミが今ここに………いない事だ………兄くん………」
千影は大きな溜め息を吐き―――その吐息は幽かに白く。
芝居掛かった所作で手を広げ―――纏う外套が春の風に靡く。
その美麗さに、己を恥じたかのように月がその姿を雲の陰に隠した。
一瞬の、闇のまにまに。
「お嬢さん、ご機嫌よう」
声。背後からの声。
既に間合いの中だ。
ここまで接近を許してしまったのは、何も眼前の光景と、今此処に無い想い人への追憶に心を奪われていた所為ばかりではなく―――
今も尚、何の気配も感じない。
これが術なのだとしたら見事な、見事過ぎる隠行としか言いようが無かった。
影のように音も立てず振り向いて、千影は声の主を見た。
そこには黒ずくめの正装に、山高帽を被り、杖を突いた白髪、そして口髭を蓄えた男性が立っていた。
しかし―――
千影はその人物を目の当たりにしても、生きているモノの存在を感じ取る事が出来なかった。
だが―――魔女が、現実に此処にいるのだ。
どのような怪異が自分の身の回りにあっても不思議な事ではない。
「ああ、ご老人………ご機嫌よう」
故にスカートの端を摘み、一礼した。