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「………これだけ医者があるんだ………一つくらい………眼科があっても………よさそうなものだけどね………」
「探してみますかな?」
「いや………よしにしておこう………」
老人はそれを、これだけの瘋癲醫院の中から、眼科を探し出す作業が億劫である事からの断りかと受け取ったのだが、直ぐに、そうでは無い事が眼前の、青紫の髪の少女の赤い口唇から漏らされた。
「これは………そこいらの医者の手に………負えるモノでは無い………のでね」
眼帯をしている方の眼を押さえる。
或いは―――隠すような仕草であった。
残された瞳が今度は老人を凝視する。
否。凝視していたのは―――黝い瞳は少女を見つめる老人の姿を映し出し、それを捕らえて離さ無い自分自身だと老人は気が付いた。
ひゅぅぅぅぅぅぅ
微かに肌を突く春風が桜の花びらと千影の黒い外套と青紫の髪とを巻き上げた。
その一瞬の間、老人は目を逸らす。
千影もまた川に、目を向け直す。
そして無言のまま、再び二人は川縁の道を歩き始める。
何時の間にか夜啼鳥の聲も途絶え。
風に桜の木が揺れる音。
瘋癲醫院に輝くネオンサインの発光に伴う鈍い音。
それだけが夜道に響く。
跫すら立てぬ二人はするすると歩みを進め―――千影の瞳はそれより尚黒い、水面に浮かぶ虹色の、異次元のような光彩を映し出していた。
やがて、沈黙に耐えかねたか、老人が先に口を開いた。
「それであれば、一刻も早く何らかの手を打つべきですな」
「………私も………そうしたい所だけれど………」
「お嬢さん、少し、お時間を頂いて宜しいですかな?」
「………勿論………構わないが………」
いずれにしても宛もなく歩き続けていた所だ。是も非も無い。
「そろそろ私の息子が帰宅している頃です。息子は独逸で細菌の勉強をしておった事がありまして―――何かお役に立てるかもしれません。それに歩き続けてお疲れでしょう、珈琲でも如何ですかな?」
「………紅茶は………出るかな………?」
老人は目を細めて肯いた。
*
気が付けば薄暗い部屋の中。
「………どう言う………事だろう………」
「有り体に言えば―――貴女は罠に掛かったのです、お嬢さん」
天窓から差し込む微かな月明かりを背に老人が立っていた。